問い直す/捉え直す
2024/10/04
その他まず目的から始める
何かを行動に移す際には、背後に必ずその目的がある。「何のため?」を深堀りして真の目的を明確しておくことで、「手段の目的化」を避けて本当に必要な行動のみを実行することができる。
その仕事やルールは何のため?
基本的にビジネスを運用する際には戦略が必要になる。戦略は以下のように要素と要素同士をつなぐ矢印でストーリーとして描くことができる。例えば、サウスウエスト航空の戦略ストーリーは次のように描ける。
サウスウエスト航空の戦略
ここでは、矢印は最終的に「コスト削減」(あるいは「売上アップ」)を通して「持続的利益」に繋がっている。この各要素に含まれていないなら「持続的利益」にはつながらないため、あなたにとっても組織にとっても意味のない仕事であり、やる価値もない。
ただし、複雑なシステムにおいて、その要素が「持続的利益」に繋がるかどうかは事後的にしかわからない。例えば、「不要かと思われた定期的な朝礼が、実は帰属意識を高め、離職率が低下し、教育コストの削減に繋がっていた」など、見落としていただけで間接的に「持続的利益」に繋がっているパスも存在しうる。そのため、段階的に変更を加えていき、その変更によって達成したい目的に近づいているかどうかを評価して、もし間違った方向に進んでいたら間違いを認めて元に戻すことも必要になる。
ルールについても同様で、状況の変化により意味をなさなくなったルールや意味があると思って定めたが逆効果だったルールについては守る価値もない。
なお、ここでは「持続的利益」が真の目的であるかのように表現されているが、実際は「持続的利益」も真の目的を達成するための手段に過ぎず、得られた利益で何をするかが重要である。もし、真の目的が「社会全体の役に立つこと」であるのに、騙すようなやり方で利益を得ているのでは本末転倒だろう。
その計画は何のため?
個人の取り組みにおいて、計画を立てるのは「全体の見通しを立てて次のアクションを明確にするため」と考えられる。既に次のアクションが明確な場合やアクションの結果次第でその後の状況が大きく変化する場合は計画を立てる意味はない。また、その取り組みにどのくらいの時間や費用が必要か見積もりたい場合には、計画を立てるより類似の事例にかかる時間や費用を計測したほうがはるかに役に立つ情報が得られるだろう。
ただし、会社単位やチーム単位での取り組みにおいては、計画を立てることで意志の統率が取れたり、資金調達に繋がったりなど、別の目的がある場合もあるためこの限りではない。
その管理は何のため?
管理は計画通り実行されているかチェックして、その後の行動を調整するために行う。何らかの理由により行動を変更できないのなら管理は不要である。支出を見直さないのなら家計簿をつける意味はないし、食生活を見直さないのなら食事記録をつける意味はない。現状を正確に把握しても、その情報を次の行動に反映できないのなら、それは余計な仕事を増やすだけである。無駄な監視や情報収集をしないように、「どんな情報を得たら、どう行動を変更するか」を明確にしておく必要がある。
その規格やプロセスは何のため?
規格やプロセスは、業務で安定的に高い価値を生み出すことを目的に設計される。業務で生み出す価値は現在の状況に強く依存する。そのため、規格やプロセスが導入された前提と現状にギャップがあれば、業務で安定的に高い価値を生み出すことはできなくなる。状況は刻一刻と変化していくので、規格やプロセスは、管理者が所有し部下に押し付けるものではなく、その現場で働いている人たち自身が所有し作業レベルで発展していくべきものである。
もし、管理者が規格やプロセスを所有していると、それらの規格やプロセスが想定する前提や背景が抜け落ちていき、規格を適用すべきでないところに適用してしまったり、前提が変わったのに古いプロセスを使って作業が行われてしまったりすることになる。
その効率化は何のため?
一般に、効率化は仕事にかかっている費用や時間を圧縮し、より重要な仕事に資源を集中するために行う。効率化によってできた時間に余計な仕事を詰め込んでいては、時間を溝に捨てるようなものであり、効率化した意味が全くない。
ルーチンワークを機械化、自動化することには、人件費の削減したり人為的なミスを減らしたりできるという意義がある。しかし、機械と違って人の注意力には限界があるため、効率化の名のもとで仕事を詰め込めば時間圧力によるミスの増加や生産性・創造性の低下が起こり、かえって逆効果になることもある。
上記のように、効率と効果にはトレードオフが発生する場合があるが、どちらかを選ばなければならないなら必ず効果を選ぼう。効率と効果の両方を求めようとするという馬鹿げた考えを抱く管理者は、意識的あるいは無意識的に、「納期の圧力をかける」、「仕事量を増やす」、「時間外労働を推奨する」、「優秀な成果を挙げなければ厳しい態度をとる」、「一人の部下の努力に注目し、皆の前でほめる」、「率先して時間外労働をする」などの行動によってプレッシャーをかけることに貢献している。プレッシャーについては次の一文(リスターの法則)に集約される。
プレッシャーをかけられても思考は速くならない。 デッドライン, トム・デマルコ
そして、過度のプレッシャーが続くと、大切な人材は士気を失い、燃え尽き、流出していく。
重要なことは殆どない
成功したか失敗したかは重要ではない
成功の反対は失敗と思われがちだが、成功も失敗も挑戦したという点では同じであり、成功しても失敗しても何かしらの経験が得られる。そもそも、難しい問題に対して最初からうまくいくことはほとんどなく、いくつもの失敗の上にのみ成功が存在し得る。もしも最近失敗していないなと感じたら、あなたは停滞しているのかもしれない。
この点について、エンリコ・フェルミの言葉を引用しておく。
実験にはふたつの結果がある。もし結果が仮説を裏付けたなら、君は何かを計測したことになる。もし結果が仮説に反していたなら、君は何かを発見したことになる。 エンリコ・フェルミの言葉
失敗したということは仮説が間違っていて新しく何かを発見したということである。仮説が間違っていたなら、また新たに仮説を立てれば良いだけだ。ただし、失敗しても致命傷を受けて退場してしまわないようにするためのリスク管理は必要である。
一貫性は重要ではない
意思決定は状況に強く依存するため、状況が変わったら当然それに合わせて意思決定も変化する(時間的非整合性)。一貫的であることより、状況に合わせて最適な決断をくだす方が重要である。
誰もあなたが全能だとは思っていない
あなたが全能で何でもできる神のような存在だと思っている人は一人もいない。全てのことを完璧にこなす必要はないし、そもそも不可能である。あなたがするべきことは、やらないことを明確にし、自分の能力の範囲でやるべきことに最善を尽くすことだけだ。
すべてのことで120点満点をとろうとすると余裕はなくなり、新しいアイデアがでない、周囲への配慮ができない、チームのピンチに手を差し伸べることもできないなどの弊害があるかもしれない。
本当に価値のあることに集中するためにも、大抵のことは「60点で十分」と許容できることが重要である。
他人の評価は重要ではない
他人からの好き勝手な評価はいわばその人の主観的な感想にすぎず、あなたにとってはただのノイズでしかない。ある人からの評価を満点にしたところで、あなたの人生にたいした影響はないことも多い。
自分自身の価値や評価を他人にゆだねるということは、人生の手綱を他人に握られているようなもので、自分の人生に対する責任を放棄していると言っても過言ではない。人生の手綱は自分でしっかりと握り、自分自身も他人の手綱を握らないように気をつけよう。
上司がどれだけ理不尽な怒りをぶつけてこようと、それは「わたし」の課題ではない。理不尽なる感情は、上司自身が始末するべき課題である。すり寄る必要もないし、自分を曲げてまで頭を下げる必要はない。わたしのなすべきことは、自らの人生に嘘をつくことなく、自らの課題に立ち向かうことなのだ。 (中略) 他者の課題には介入せず、自分の課題には誰ひとりとして介入させない。これは具体的で、なおかつ対人関係の悩みを一変させる可能性を秘めた、アドラー心理学ならではの画期的な視点になります。 嫌われる勇気, 岸見一郎 古賀史健
ただし、価値観をともにする人や自分の人生に取って重要な人からのフィードバックは反芻して積極的に自分の行動や価値基準に組み込むと良いだろう。
仕事は重要ではない
仕事は「人生の中心であり最優先されるべきもの」などではなく、人生を構成する要素の一部でしかない。その日の内に片付けなければならない仕事などほとんどなく、たいていの場合家族や友人を優先した方があなたの人生にとって有意義だろう。
家族や友人が第一、仕事がその次 長く続く人間関係は人生において根本をなすものであり、仕事よりも優先されるものです。 GitLabに学ぶ世界最先端のリモート組織のつくりかた, 千田和央(GitLabハンドブックより)
「仕事だから」が口癖になっている場合、仕事を言い訳にコミュニケーションから逃げているだけである可能性が高い。あらゆる人間関係に全力でぶつかる必要はないが、自分の人生に取って重要な人とのコミュニケーションからは逃げないでほしい。
まずは自分の酸素マスクを
飛行機の酸素マスクの装着ガイダンスでは、親はまず自分の酸素マスクをつけて(自分の安全の確保を最優先)、その後子供に酸素マスクをつけるように指示される。あなたが先に倒れたら、他の人を本当に助けることはできない。
短期的願望と長期的願望
「短期的願望と長期的願望が対立する場合、長期的願望を優先する」という原理は、人生の行動指針としてもある程度有効なように思われる。
一般に物事の出口がみえにくいときには、一個の指導原理を据えてそれを基準に進むのが有効である。この場合には「良い政体とは、短期的願望が長期的願望を駆逐することを最大限に阻止できるシステムで、これは表面的な制度が何であるかに優先する」ということが指導原理となり、これが正解にたどり着く最も良い手段である。 世界史の構造的理解, 長沼伸一郎
過程が楽しくないと長期的に何かを続けることはできない。そのため、長期的願望によって過度な倹約などが要請される場合、目的へのパスを再検討したほうが良いかもしれない。
心理的柔軟性
日々追われているタスクの中で、あなたにとって重要なことは殆どない。自分が本当に大切にしたいことや価値があると思うことに意識を向け、それを邪魔するような個々の事象や感情、他人の評価などにとらわれず、余計なことに反応しないようにする「心理的柔軟性」が重要である。個々の事象に固着しないが、個々の事象を疎かにするわけでもなく、個々の事象からフィードバックを得て、本当に大切なことは何かを問い直し続け、それに意識を向け続けていきたい。
もともと人情には、こんな陥りがちな欠点がある。 成果を焦っては対局を観ることを忘れ、目先の出来事にこだわってはわずかな成功に満足してしまうかと思えば、それほどでもない失敗に落胆する。 論語と算盤, 渋沢栄一
部分と全体
複雑なシステム
この世界ではあらゆるモノとコトがシステムを形成し、そのシステムは他のシステムに隣接したり重なり合ったり、包含したり、包含されたりして、メッセージを相互にやり取りし合い、その複雑さが醸成されていく。自分自身(人間)も全体の一部であり、その振る舞いが全体に影響を及ぼすことを忘れてはならない。
すべては密接に結びついている。そのように振る舞いなさい。 資本主義の次に来る世界, ジェイソン・ヒッケル(生態学の原則より)
メッセージ
隠れたメッセージ(メタメッセージ)
すべての行動(したこともしなかったことも)はメッセージを発している。いつも忙しそうにしていれば「話しかけないでほしい」というメッセージになり、目を合わせなければ「あなたに興味はない」というメッセージになる。毎日遅くまで仕事していれば「家族や友達のことを大事に思っていない」というメッセージになるし、ずっと強がっていると「あなたの助けは必要ない」というメッセージになる。過保護にしていると「あなたには一人でやっていく力がない」というメッセージになるし、求められてもいないアドバイスは「あなたは自分より劣っている」というメッセージになる。平気で遅刻していると「あなたの事を軽んじている」というメッセージになり、自分の意見を全く主張をしなければ「自分は軽んじられてもよい人間だ」というメッセージになるかもしれない。
あなたが心を入れ替えてどんなに言葉を尽くしても、往々にして相手が受け取るメッセージは変わらない。本当に相手のことを思うなら、時には距離を置くことも必要になる。
自分たちの態度や行動を変え、どんなに言葉を尽くして励ましても 、息子がそこから感じとるのは『おまえは劣っている。だからお父さんとお母さんが守ってやらなくてはならない』という”メッセージ”だ。これではうまくいくはずがない。状況を変えたければ、まず自分たちが変わらなくてはならないのだと、私たち夫婦は悟った。 7つの習慣, スティーブン・R・コヴィー
とりわけ、インセンティブの設計に関しては、コブラ効果(「コブラを減らすためにコブラの皮を1枚持ってくるごとに金銭的なインセンティブを与えると、コブラを養殖して稼ぐ人が出てきた」という事例にみられるように、インセンティブが意図しない結果を助長してしまうこと)を生じさせないか注意が必要である。
何気ない行動やインセンティブが周囲の人に意図しないメッセージを伝えてしまっているかもしれない。自分が伝えようとしているメタメッセージは何なのか、本当にそのメッセージでよいのか一度考えてみるのが良い。
伝わらないのがデフォルト
メッセージの多くは言葉を媒介として伝えられる。言葉に限ったことではないが、媒介を経由する際に情報ロスがある上、そもそもお互いのスキーマやその言葉自体の定義が異なっていたり、伝える側や受け取る側に大きなバイアスがあったりして、伝えたかったことの半分程度しか伝わらないと思っておいたほうが良い。まして言葉にしなければほとんど何も伝わらず、受け手はネガティブバイアスにより隠れたネガティブなメッセージのみを受け取る可能性が高くなる。
言語の限界
言語は(自分が認識している)世界のあり方を記述するための一つのツールに過ぎず、言語記号それ自身については何一つ語ることはできない。長さを図るための物差しを作るのに別の物差しが必要なように、言語記号自身を説明するために別の言語記号が必要になる。突き詰めると、「電磁波」のような単語でも「電磁波は電場と磁場の変化を伝搬する波である」のようにある種の同語反復的な説明にならざるを得ない。言語記号は言語記号自身については何も語ってくれず、使用されている文脈から推測するしかない。
また同様に、世界がなぜそうなっているかについては語ることはできない。仮に数式を用いて世界を完全にシミュレートできたとしても、「なぜ世界がそうなっているのか」についてはやはり語りえない。物体が落下するのを重力のせいにしても、「それではなぜ重力が存在するのか」については説明できない。
実際に生じる差を能力という不可視の定規で説明する。これは循環論であり、能力に応じた格差は正当という文は同義反復だ。能力は実質に支えられた概念でなく、格差を正当化するために持ち出される社会装置である。 この手の循環論は多い。物理学における力もそうだ。静止あるいは等速直線運動する物体に外力が働くと運動状態が変化する。これが力の定義だ。だが、実際に観察できるのは物体の位置と運動量であり、力自体は測定できない。運動状態が変化する時、力が加わったと理解し逆算するのである、運動の原因が力なのかは明らかでない。 (中略) 惑星が太陽の周りをどのように移動するかという問いに対しては確かに、これらの法則[ケプラーの法則]によって完全な答えが与えられている。すなわち軌道が楕円形を描くこと、均等な時間内に同じ面積が通過されること、楕円の長軸と公転周期との関係などについてである。だが、これらの法則は因果関係の必然性には答えない。[….]これらの法則は包括的に捉えた運動を問題にするのであり、システムの運動状態が直後の状態に至る機制は検討されない。今日の言葉で語るならば、これらは積分的法則であり、微分的法則ではない。(Einstein, 1991) 格差という虚構, 小坂井敏晶
さらに、言語にはその前提に語り手の存在がある。語り手はが認識できる範囲には限界があり、未来を知ることはできず、銀河系の外側に行くことはできず、死んだこともなく、ましてや神でもなく、脳以外を通してこの世界を知覚できはしない。さらにいうと、痛いなどの感覚自体を他者と共有することさえできない。そして一個体であるがゆえに多くのバイアスを持ち、時代や場所の影響を大きく受けてしまう。
これらの限界(説明の終端)を超えて世界のあり方を記述することはできず、当然の帰結として運命や死、神や真理などについては何一つ語りえない。語り得ないことについては沈黙しなくてはならず、無理に語ろうとしたところでそこで紡がれる言葉は意味をなさない。自身が認識できる範囲のことしか語り得ないという言語の特性上、例えば「世界は存在するか?」という問いは、「自身の認識し得る範囲(=世界)は認識し得る(=存在する)か?」という意味をなさない問いに変換される。
神や運命とはその場合、世界のあり方を記述するための形式であり、それゆえ、その形式自体についてはーすなわち、神や運命の存在についてはー世界のあり方のひとつとして語ることはできない。神や運命は、その意味で説明の終端なのである。 そして、全く同じことが自然法則についても当てはまる。しかし、現代の人々の多くは、そのように説明が尽きる地点があることを看過している。言い換えれば、語りえないことがあることを自覚せず、自然法則ですべての出来事が語られうると漠然と考えている。 ウィトゲンシュタイン論理哲学論考, 古田徹也
言語化の罠
近年、ビジネスの現場では言語化の重要性が増しており、詳細まで言語化、ドキュメント化することが求められる。ビジネスにおいてはそれでも良いが、あらゆることを言語化しようとすると、「物事が、言語化によって切り出された側面の制約のみで交換可能なものとして捉えられて、言語化されない部分は無意識的に矮小化されてしまう」という副作用もある。例えば、「あなたにはこういう能力があるのでここにいてほしい」と言ってしまうと、言及したこと以外は矮小化されて、その能力があれば誰であれ交換可能であるというメッセージになる。言語は万能ではない。言語化しすぎたことによって不本意なメッセージを伝えないように気をつけた方が良い。
強い言葉と弱い言葉
疑いようもないことをわざわざ強調することはない。「空は確かに青いのだ、これは全く確かなことだ!」などと叫ぶ人はいないだろう。また、誰も気にしない可能性にわざわざ言及することもない。「3000年後の今日は雨かもしれない、、」とつぶやく人はいないだろう。
違和感を感じるような強い言葉や弱い言葉には注意が必要である。何を企んでいるのかは知らないが、「確実に儲かる!」といった強い言葉や契約書に小さい文字で書かれた但し書きのような弱い言葉の背後には、意図的に強調あるいは矮小化する理由がある。
違和感を感じるような強い言葉や弱い言葉を見かけたらとことん深掘りしよう。その違和感はたいてい正しい。
ポジティブに受け止める
人は心から期待をかけられるとパフォーマンスが向上し(ピグマリオン効果)、逆に期待されていないとパフォーマンスが低下する(ゴーレム効果)。期待に見合った環境が与えられ、それがパフォーマンスに影響することもあるし、期待されることにより行動に迷いがなくなり、それがパフォーマンスに影響することもある。
もし、相手からのメッセージをネガティブに受け止めると、意識的にであれ、無意識的にであれネガティブなメッセージを返してしまう。すると悪循環に陥って、チーム全体のパフォーマンスは低下していく。可能な限り、相手からのメッセージはポジティブに受け止めるようにすると良い循環が生まれやすくなる。
また、ネガティブなメッセージを受け取って気が立っていると、全く関係のない家族や友人に対してもネガティブなメッセージを発してしまうかもしれない。およそポジティブに受け止められないようなネガティブなメッセージを発する人からはできるだけ距離を置くようにした方が良いだろう。
信頼を得るには
一般的に、信頼を得るには信頼に足ることを示す必要がある。しかし、信頼に足ることを示すにはまずそれを示すのに必要な何かを任されなければならない。つまり、信頼に足ることが示されるより前に信頼が与えられている必要がある。
人は信頼を与えられると、ほとんど無意識のうちに忠誠を返す。才能あるリーダーはまだ実績を上げていない人にも信頼を与えてくれる。実績が示される前に信頼を与えるのはリスクではあるが、リスクを取ることでしかより大きな価値は創造できない。
あるいは全く信頼されていない状態から、少しづつ信頼を勝ち取っていくことも可能かもしれない。だが、最初から信頼してくれる人のもとで働いたほうが大きな成果を出しやすいだろう。
未来の自分へのメッセージ
たとえ周囲に誰もいなくても、自分の行動はいつも自分自身が見ていて、未来の自分へのメッセージになる。一度妥協すると「自分には力がない」あるいは「その問題は対して重要でない」というメッセージになり、自分に嘘をついていると「自分の気持ちは無視しても構わない」というメッセージになる。掃除に時間をかけていれば「自分は清潔な空間を好む」というメッセージになるし、自分の健康維持のために時間をかけていれば「自分のことを大切にしている」というメッセージになる。少なくとも毎日ゴミ拾いをしている人はむやみにポイ捨てなどしないだろうし、いつも食事に気を使っている人は進んでジャンクフードを食べたりはしないだろう。
思考に気をつけなさい。それはいつか言葉になるから。 言葉に気をつけなさい。それはいつか行動になるから。 行動に気をつけなさい。それはいつか習慣になるから。 習慣に気をつけなさい。それはいつか性格になるから。 性格に気をつけなさい。それはいつか運命になるから。 マザーテレサの言葉
虚構
「なぜ?」や「何のために?」といった世界のあり方の意味を問う問いかけには本質的に終わりがない。虚構は世界のあり方として発見された現実ではなく、発明された『虚構』にすぎないが、人々に信じられ、その虚構性が隠蔽されることによって、この終わりのない問いに終止符を打ち、世界のあり方(現実)に超越的な意味と目的を与えてくれる。
虚構と協力
多数の人間が効果的に協力するための唯一の方法は同じ虚構を信じることだ。同じ虚構を信じることで世界のあり方(現実)の意味と目的を共有し、協力して社会システムを築くことが可能になる。法治国家、株式会社、資本主義、貨幣、信頼、責任、自由、平等、権利、宗教、科学といった虚構を誰も信じていなければ、現代社会は今とは全く異なるものになっていただろう。異なる神話を信じている人が協力して祭壇を築くことはできないし、ゲームのルールを理解していない人が協力してそのゲームを進めることはできない。
虚構とメッセージ
虚構は虚構であるがゆえに懸命に努力し続けなければ、誰も信じなくなりすぐに消えてなくなってしまう。虚構を維持するために、国は軍隊や警察の暴力によって強制したり、徴税によって貨幣に需要を付与したり、補助金によってインセンティブを与えたりといったメッセージを送り続けている。虚構を維持するために、経営者は社員に自社の理念を繰り返し伝えたり、自社の理念を反映した採用基準や評価制度に従うように指示することによってメッセージを送り続けている。
あらゆる行動が発する個々のメッセージは虚構の形成に役立っているとともに、虚構からも大きな影響を受ける。資本主義を採用している国が紙幣の偽造を促すようなメッセージは出さないし、最高品質を謳っている企業が耐久テストの結果の改ざんを促すようなメッセージは出さない。
そして、虚構は人を介してメッセージとして伝わり、その過程で個々人に再解釈されるため、普遍ではありえない。時代や文化、経由する個人の価値観のなど要請を受けて少しずつ形を変えながら他の虚構と混じり合って再構成されていく。(特に、科学のような全世界で共通している虚構は、平等主義や相対主義のような思想に広く影響を与え、虚構の浸透を後押しする。)
虚構の罠
虚構は常に正しいとは限らず、大抵の場合行き過ぎた虚構への信仰は副作用を生じさせ、さらに悪いことにその状態から出られなくする。
例えば、人々は「一生懸命働けば、よりよい暮らしができる」という成長神話(虚構)を信じて、仕事に大きな労力を注ぐ。すると一時的に余裕はできるが、すぐさま家のローン、子どもの養育費、自動車の維持費、疲れを癒やすための余暇費用などに消えてしまう。そうして、なおさら一生懸命働くことを強要される。一生懸命働いた疲れを癒やすために浪費が増えてしまっている場合はなお一層たちが悪い。
また、人々は昔は手紙を書いてメッセージをやり取りしていたが、今では電子メールで一瞬でメッセージを送ることができる。確かに以前と比較して、宛先を書いて切手を貼りポストまで持っていく手間はなくなった。だが、これらのコストがなくなった分、我々はどうでも良いメッセージの対応に時間を追われている。
歴史の数少ない鉄則の一つに、贅沢品は必需品となり、新たな義務を生じさせる、というものがある。人々は、ある贅沢品に一旦慣れてしまうと、それを当たり前と思うようになる。そのうち、それに頼り始める。そしてついには、それなしでは生きられなくなる。 サピエンス全史, ユヴァル・ノア・ハラリ
ナチズムやアッシュの同調実験などからもわかるように、人間は環境や虚構の影響を大きく受ける本質的に弱い生き物である。虚構に従って行動すると、その行動によって虚構への信仰がさらに強化されるというループにより、虚構と現実の区別さえままならなくなる。
虚構とシステム
人類の社会システムの根幹には必ず虚構がある。資本主義以前の生活を想像するのが難しいように、資本主義のような虚構は我々の価値観にプリインストールされ、システムはこの虚構に基づいて構成されていく。全体を部分に分解して理解したつもりになっても、その背景にどのような虚構が存在するのかを理解できていなければ、全体を理解することは到底できない。
我々は虚構のおかげでうまく協力して社会システムを築く事ができるが、虚構によって協力の目標が決まってしまうという代償を伴う。そして、システムがうまくいっているように見えるのはそのシステム自身の基準でシステムを測っているからにすぎないという場合も少なくない。
例えば、学校教育のシステムを「試験の成績」という物差しのみで測るようになれば、「学校教育」は「試験の成績を上げるための教育」へと成り下がり、試験の成績を上げることが自己目的化する(キャンベルの法則)。そして、特定の科目を集中的に学習させるなどの施策によって試験の成績は上がり、あたかもこの教育システムがうまくいっているかのように見える。さらに、この教育システムによって試験の成績が優れている人が人気の高い職を占めるようになると、この教育システムはさらなる指示を得て強化される。だが、本当に「試験の成績を上げること」が学校教育の目的だったのだろうか。特定の科目に集中し、「試験の成績を上げること」に貢献しない科目を排除することは本当に生徒のためになるのだろうか。
資本主義システムも、生産と成長という物差しで測り、自然環境への影響を無視すれば、うまくいっているように見える。そして、もともとあった共同体を破壊して飲み込むことによって強化されていく。
人間の協力ネットワークはたいてい、自らが生み出した基準を使って自らを評価し、驚くまでもないが、自らに高い点数をつける。とくに、神や国家や企業といった想像上のものの名において構築される人間のネットワークは通常、自らの成功を、その想像上のものの観点から評価する。宗教は、神の戒律を字義どおりに守っていれば成功しているのであり、国家は国益を拡大していれば輝かしいのであり、企業はたっぷり利益をあげていれば繁栄しているのだ。 (中略) 想像上の物語なしでは市場や法廷の恩恵を受けることはできない。だが、物語は道具に過ぎない。だから、物語を目標や基準にするべきではない。私たちは物語がただの虚構であることを忘れたら、現実を見失ってしまう。すると、「企業に莫大な収益をもたらすため」、あるいは「国益を守るため」に戦争を始めてしまう。企業やお金や国家は私たちの創造の中にしか存在しない。私たちは、自分に役立てるためにそれらを作り出した。それなのになぜ、気がつくとそれらのために自分の人生を犠牲にしているのか? ホモ・デウス, ユヴァル・ノア・ハラリ
別の虚構から眺める
前提を問い直し、別の虚構から物事を眺めてみると全く違って見えることもある。問題と思っていたものが実は問題でなかったということも起こり得る。
例えば、経済的格差は、社会主義では重大な問題とみなされるが資本主義では許容される。これらの虚構はどちらか一方が他方より優れているということはなく、どちらも一つの虚構にすぎない。
『自己』という虚構
多くの人は『自己』という主体が存在し、自由意思に基づいて意思決定をしているように感じていると思うし、現代の社会システムも多かれ少なかれ、そういった自由主義を前提として構築されている。だが、現代科学では、様々な脳のモジュールが互いに情報を送り合うことで意思決定がなされていて、その過程で「統一された『自己』という主体が存在し、その主体が自由意志によって意思決定している」ような錯覚を生み出すと考えられている。このような物語(錯覚)を紡ぎ出す解釈者モジュールは即興でもっともらしい説明を作り上げるので、私たちはその物語が本当だと信じ込んでしまう。
心理学の実験や、脳の回路の配線[脳のハードウェア的な特徴]や、現代の機械学習および人工知能研究で用いられている処理機構(脳の協働的計算方式にヒントを得て考案されたアルゴリズム)から、この全体像は浮かび上がってきたのである。脳という「計算する内蔵」は、経験、感情、信念、欲望、希望、恐怖など(意識的であろうと無意識的であろうと)の渦巻く海なのではない。心は物語を紡ぎ出しているのだー動機や信念や道徳基準や宗教基準に人間は動かされているのだという物語を。 (中略) 私たちが一瞬ごとに「覗き込んでいる」つもりのぎっしり豊かな精神世界というのは、自分が一瞬ごとに創作している絵空事なのである。 心はこうして創られる, ニック・チェイター
自己という主体は存在しない。もっともらしい物語を中心に内部と外部が明確に別れているような錯覚を覚えるが、実際には無数のモジュールが絡み合い、絶え間なく変化する境界なきシステムが存在するだけである。私たちが「自己」と呼ぶものは、そのシステムの一時的かつ部分的な表れにすぎず、内部や外部の相互作用によって刻々と再構築される。
ベイトソンはまた、「生きたシステム」を説明するためにこんな例を出す。木こりが斧で木を切る場面を考えてみよう。振り下ろされた斧は木に傷をつける。その傷をめがけて次の一打ちがなされる。木の傷はより明晰になり、木こりはまたその傷をめがけて斧を振り下ろす。こうして、斧の一打ちは、手前に放った一打ちによって制御される。このように、木・目・脳・腕・斧・打・木というシステム全体が自己修正的に働いた結果として、木が倒される。 「主体としての木こりが対象としての木を切っている」という認識をいったん捨てよ、と言うのだ。木こりと木と斧の間にあるシステムのうねりが、木こりに木を切らせ、木は斧によって切られて倒される。主体と客体に二分された認識ではなく、主客一体のうねりの中で成立する世界像である。 問いの編集力, 安藤昭子
私たちは存在しないはずの『自己』を何かしらの物語と同一視することで、自らを苦しみの中に閉じ込める。
『自己』を仕事や役職を中心とした物語と同一視すれば、仕事や役職を失ったときにみっともなく過去の役職にしがみつくか、激しい虚無感に襲われることになるだろう。
『自己』を自身の子供を中心とした物語と同一視すれば、過保護や過度の期待により子供を潰してしまい、苦悩と後悔に苛まれるだろう。
『自己』を他人からの評価を中心とした物語と同一視すれば、他人の基準で他人の人生を生きる羽目になるだろう。
『自己』を自国を中心とした物語と同一視すれば、祖国のために自分の命を投げ出して特攻し、大事な命を無駄にすることになるだろう。
『自己』を自身の感情を中心とした物語と同一視すれば、特定の感情を避けて特定の感情を追い求めることに人生を費やすが、それは決して満たされることがないため不幸の渦にとらわれることになることになるだろう。かといって、感情を殺した物語と同一視すれば、悲しみも苦しみも感じない代わりに楽しみも喜びも感じなくなるだろう。
『言語』という虚構
長さを図るための物差しを作るのに別の物差しが必要なように、言語記号自身を説明するために別の言語記号が必要になる。「大きいということは大きいということだ」と言ったところで誰も納得しないが、我々は以下の説明で納得することを強制される。
「大きいということはどういうことか?」
→「大きいということは物の形・量、事柄の度合が同類のものを越えて上回っているということだ。」
→「上回るとはある基準を超えていることだ。」
→「超えるとはある数量、程度以上になることだ。」
→「以上とはそれを含むその上の範囲のことだ。」
→「上とは基準とするものより高い方、高い所のことだ」
→「高いとは数値が大きい、または度合いが大きいということだ」
「大きい」から始まって事「大きい」へと返ってくる。この循環するという事実が意識に上らないほど十分に長ければ虚構は成立する。
『同一性』という虚構
あらゆるものは時々刻々と変化し続けている。そして変化が生じれば、それはもはや同一ではない。徐々に船の部品を交換していき、最終的に船の部品全てが取り替えられても、それを「テセウスの船」と呼び続けるのは、人間が恣意的に同一視しているからに他ならない。
同一性と変化は本来両立しない。民族に限らず、すべての存在は変化が生ずれば、同一ではありえないし、同じ状態を維持すれば、変化し得ない。この矛盾を解くために、同一性は存在しない、社会的に生み出される虚構だと主張した。実体を定立する構図には、同一性を生み出す源泉が隠蔽されている。万物は変化し続ける。しかし、刻々と変化する様々な相を観察する人間が、同一化を通して恒常の表現を生み出すのである。 増補 民族という虚構, 小坂井敏晶
『生産性』という虚構
生産性という概念の背景には必ず誰かの価値基準が存在する。どこの馬の骨ともわからないようなどこかの誰かのくだらない価値基準に、あなたの大切な時間を費やす価値はない。
各人が固有のリズムを規定し、他者によって作られた時間を買うよりも、自らの手で創り出すことを選ぶ<自己の時>を創造しなければならない。つまり他者の時に沿って押し流されるよりも、自己の時を生き、他者の機械によって繰り返される音楽を聴くよりも、自分自身の音楽を演奏することが望ましいのだ。 時間の歴史, ジャック・アタリ
『正義』という虚構
絶対的な正義や悪といったものは存在しない。システムを運用する上で都合が良いものを正義、都合が悪いものを悪と呼んでいるにすぎず、そういった『正義』や『悪』は所属する集団や時代によって変わりうる。まして我々がわざわざ引っ張り出して振りかざすような『正義』というものは、たいてい個人にとって都合が良いことにすぎず、家族であれ、友達であれ、自分の子供にであれ、仕事仲間であれ、他人に強要して良いようなものではない。
妊娠中絶・脳死・人間クローン・安楽死・死刑など、どれをとっても根拠は存在しない。どんな正当化をしようと恣意を免れない。今ここに生きる我々の眼にこの答えが正しく映るという以上の確実性は人間に与えられていない。判断基準は否応なしに歴史・社会条件に拘束される。正しいから受け入れるのではない。原因と結果が転倒している。同意して受け入れられたから正しいと形容するのである。その背景には論理以前の信仰が横たわっている。 格差という虚構, 小坂井敏晶
『貨幣』という虚構
貨幣の本質は貸し借りの履歴である。現在流通しているお札(日本銀行券)は、日本銀行の負債として計上されていて、銀行に預ければ今度はただの数値データとして管理される。
このように、貨幣は貸し借りの履歴のデータにすぎないのだが、政府の徴税によってそこに強制的に需要が生まれる。これによって、貨幣は民間のやり取りでも流通し、一般社会においても労働力と交換が可能になる。この交換可能の事実が貨幣自体に価値があるような錯覚を生んでしまう。
貨幣を得ることそれ自体が目的化してしまうと、貨幣の奴隷として生きる羽目になり、市場でほとんど評価されない家事や育児といったより重要で本質的な仕事は軽視され、本質的に必要ないブランド商品や買い煽りのマーケティングなどが蔓延るようになる。
『目的』という虚構
前提となっている虚構を認識したうえで、虚構自体を目的や基準にすることを避けつつ、真の目的を深堀りすることができれば、それを達成するための選択肢は一気に広がるように思われる。だが、他でもない虚構が世界に意味と目的を与えてくれる。虚構に気づいた時点で世界から意味が剥ぎ取られ、同時に他人と共有するべき目的も失われる。そのため、目的が失われてしまわないように、その土台となる虚構を少しずつ必要に応じて作り直していくより他に仕方ない。
私たちの生き方と社会を構築するのは、本来的に終わりのない、創造的な過程であることを意味する。何をもって自分の意思決定や行動の基準とするかということ自体も、その同じ創造的過程の一部なのだ。つまり人生とは自分たちで遊び、自分たちでルールを創作し、点数をつけるのも自分たちであるようなゲームなのだ。 (中略) 大義や事業や人間関係を受け入れたり捨て去ったりすることで、あるいはそれ以外の百万通りもの方法で自らの人生を変化させうるのだ。つまり、どれを前例とみなすかということ自体が変わりうるし、変わり続ける。よろめき、蹴つまずきながらであれ、だんだんとましな「物語」に出会いたいものだと私たちは願う。されど、いま手にしている話から出発することでしか、新しい物語は創れない。 心はこうして創られる, ニック・チェイター
終わりに
(さて、ここまでの内容をまとめようと思う。だが何のために?)
付録 - サッカーのメタファー
目的達成までの戦略的プロセスは、しばしばサッカーのメタファーが用いられる。各プレイヤーはパス(行動)を通してボール(メッセージ)を送り、ゴール(真の目的)を目指す。各プレイヤーはルール(虚構)という制約の下で戦略を立て、ルールを外れたプレーヤーは退場させられる(彼らとはもはや協力できない)。相手(環境など)も簡単にはシュートを打たせてくれないので、プレイヤーは各自の得手不得手を認識したうえで、自陣に有利な状況を作り出せるようにポジショニングする。ボールを持っていない時間の方が圧倒的に多く、オフザボールでの動き(状況確認やリポジショニング、次への準備など)がゴール(真の目的)への道を作り出すと言っても過言ではない。
また、パスやドリブルといった動きを経由するほど、相手に反応する(状況が変化する)時間を与えたり、不確実性が増していくため、ダイレクトシュートが狙える(リスターの法則を避けて直接真の目的を狙える)のならその方が良い。
そして、サッカーを心から楽しむには、大前提としてルールを受け入れ、それが虚構であることを忘れる必要がある。さもなければ、22人で一つのボールを追いかけ回すのはあまりに滑稽に映る。だが、虚構はあくまでも人類が協力するための有用な道具でしかなく、虚構を守ること自体を目的化するべきではない。体を動かしたいだけなら、サッカーではなくバスケをしても良い。