語りえないもの
2026/01/03
その他語りえないもの
ウィトゲンシュタインによって「語りえないもの」として挙げている代表的なものには、価値、世界それ自体、神、私自身、経験としての死などがある。ここでいう「語りえない」とは、「有意味には語りえない」、つまり「語ろうとしても無意味、あるいは意味がとれない文言になってしまう」という意味である。言語を使ってしか物事を考えられない我々が、言葉の使い方を取り違えて「それっぽいが中身のない議論」に迷い込むのを避ける助けになる。
とりわけ後期ウィトゲンシュタインでは、言語の意味は使用(その文言が発せられた文脈や目的、規則など)によって決まると主張されており、同じ文言でも使われ方次第で有意味にも無意味にもなりうることには注意が必要である。
価値
世界に生じうるどんな事態にも特別な重みが与えられることはない。特定の価値観は経験の中で個々人が獲得していくものである。
「無駄がなくて、簡潔だから美しい。」というのは「私は無駄がなく簡潔なものを美しいと思う人間である。」という宣言としては有意味だが、「この世界には無駄がなく、すべてが簡潔であるべきだ。」という宣言としては意味不明である。ここの認識を取り違えて、「この世界はこうあるべき」だとか、「人間はこうあるべき」だとか事実の説明として言い立てることには意味がない。
世界それ自体
宇宙や太陽系、石ころや机の存在するのに時間的に先行して、世界が存在しているわけではない。世界それ自体は、世界の中の諸対象のあり方が具体的に語られる中で、いわば示されるしかない。
「その部屋の中には机がある。」という事象の説明は有意味だが、「世界が存在する。」という枠組みそのものの説明は意味不明である。
神
神は世界の中には現れず、説明の穴を埋めるための便利な原因として利用されうる。
「彼は神を信じている。」というのは信仰についての事実としては有意味だが、「神はこの世界を創造した。」「神の恵みだ。」というのは原因の説明としては意味不明である。
私自身
世界の具体的なあり方を知覚し、世界の可能性を想像する主体としての私自身は、世界の中には現れない。
ゆえに「私は怒っている」という状態の報告は有意味だが、「我思う、ゆえに我あり」という論理推論は意味不明である。
経験としての死
人は自分が死んだ後にはすでに生きてはいないので、自分が死んだということを経験することはできない。
「祖父が死んだら私はどうすればよいのか。」というのは不安の表明として有意味だが、「死後も魂はあるのか。」という疑問は科学的な問いとしては意味不明である。
より一般的な「語りえないもの」
価値や世界、神など哲学的なもの以外にも語りえないものは多く存在する。故意に、あるいは自身も気づかずに、意味不明な文字列を有意味だと他者に錯覚させて、人々の貴重な時間やお金を浪費させている。
例えば、「現代人にはデトックスが必要だ」とか、「血液クレンジングで健康な体に!」といった文言が当てはまる。体のデトックスやクレンジングとはそもそも何なのか、害となる物質を具体的にどのように測定し、どうやって体外に排出するのかについてはまったく不明である。もちろん、突き詰めれば医学的概念として整理できるかもしれないが、先の文言のみでは判断不能であり、意味不明である。
